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ny2017のブログ

ちゅっちゅぽっぽ❤️

2017/2/7

Interspecies organogenesis generates autologous functional islets

http://www.nature.com/nature/journal/vaop/ncurrent/full/nature21070.html#tables

 

先生が、毎月200本ずつ論文を読むつもりでやれとおっしゃっている。ひえ〜汗

2/2

アメリカに着いてから数日の間は、1日1日がすぎるのがほんとゆっくりだったなぁ。

 

何をするにも、わからないことだらけだった。電車に乗るにも、どこが駅で、券売機がどれで、支払いは現金なのか、どの線で、どっち方面で、どこの駅で降りて、とか考えることがたくさんあったし、日常の全てがその調子だった。時差もあったせいか、夕方にはとっても眠くなっちゃって、最近ようやく12時くらいまで起きれるようになった。最近は、1日1日が終わるのがほんとあっという間。最初の一週間は見学だけだったけど、今週からは自分でやることも増えてきて、だんだん朝早くから夜遅くまで実験するようになるっぽい。昔来た学生は、夜に疲れてクリーンベンチで寝てるところを救出されたらしい笑

 

彼女ちゃんと毎日電話するのがほんと楽しくてとっても幸せ❤️

インターンで朝から夜までとっても忙しそうで、ほんとお疲れ様でし❤️

お声が聞きたいなって思うけど、負担になっちゃってるような気もして、忙しい時は遠慮なく言ってくれたらなって❤️うふふ❤️

スーツとして参戦したり、お口に食べ物アーンてできないのが本当に悲しいけど、だからこど、日本に帰ってからコラムを音読することを固く誓った←意味不明ww

 

実験もこっちに来てからほんと楽しい。日本でこんな風にやれてたら、研究室通いが本当楽しかっただろうなって。ホットな話題について、出たデータをもとにどんどん仮説を立てて検証していく過程を見るのは本当にエキサイティング。しかもテンポめちゃくちゃ速いし。改めて思うけど、日本の研究室にいるときは実験の手技が複雑すぎたのかなと。

 

Nature Reviewsには色々な領域についてのreview論文が載ってて、ほんと面白そう。

Home : Nature Reviews

 

週末にボストン行くのも楽しみだな〜!

 

今日のお昼はサブウェイで、夜はスパゲティーだった。スパゲティー好きだな〜。

2017/2/1

うふふふふふ❤️ちゅくちゅくちゅく💓

 

昔いた神経系の研究室より手技が断然簡単で時間もかからなくて、ささっと実験が進んむ。それなのにテーマはトレンドに乗っていて発展性もある。「研究」っていうジャンルに入ることをするのであっても、テーマによって、国によって、トップの人によって、指導してくれる人によって、その内容は全然違うんだなって思った。「どこでやるか」、とか、「何をやるか」とか、環境とか方向性、選ぶフィールドが本当に大事だなと。努力するとかいう話以前に、どこでどういう方向に努力をするかの方が大事なのかなみたいな。

 

昔いた神経系の研究室に入った理由は、自閉症に興味があって、学部の研究室の中では一番テーマが近そうだったから。小学校が自閉症の人が多くて、特にその子を支える親や兄弟がものすごく大変そうだと思ったから興味があった。けど、色々な理由で最近は全然いかなくなっちゃった。

 

一つ目は、手技が複雑で、習得するのにとっても時間がかかりそうだったから。実験を組むのに必要な手技がいくつかあってそれを全部習得するのに真面目にやっても半年くらい時間がかかったはずだけど、現実には学部の実習もあればアルバイトもあって毎日ずっと実験できるわけじゃなくて、もっと時間がかかると思った。6年生になったらある程度は勉強に集中しないといけないことを考えると、仮に手技が習得できたとしてもまともに実験できるのは数ヶ月だけだったはずで、きっと仕事として完成しないだろうと始める段階で思っちゃった。

 

二つ目は、人間に特有と言ってもいいような高次の脳機能の障害についての研究がしたいのに、マウスで実験して何かが言えてもそれが人間の治療に少しでも使えるのかっていうそもそもの疑問もあった。調べたらこんな記事もあったけど、学部生じゃこういうマウス使いたいって言ってもお金かかるし使えないだろうな。

sign.jp

 

三つ目は、したい研究と、実際やってるテーマが遠かったこと。研究室自体は基礎の研究室だったから、病態の解明っていう切り口ではなくて、正常な仕組みの解明が主な関心だった。だから関係があるとは言っても、正常な仕組みか病態かっていうそもそもの方向性が違うし、テーマ同士の関係性も間接的で遠いし、示そうとしていることが言えたところで病態の解明にはたぶん全然つながらないし、って考えるとこのままやってるのってどうなんだろうっていう感じがしちゃった。時間もかなり使わないといけないし。

 

やり始めた当時は研究ってどんな感じか全然わからなくて、僕に合うかもわからないし、とりあえずどんな感じか知りたいなって思って始めた。

入学した当初は、絶対に研究はしないと思ってた。細胞を培養して試験管をふるのってどのあたりが面白いんだろう?って真面目に思ってた。それに、財政状況がまずいことを考えると、新薬の開発ができてもなかなか使えなくなるんじゃないかと思ってたし。新薬って効果が高くなるけど値段も昔のやつに比べて上がることが多い。オブジーボとかハーボニーみたいな。本当の新薬以外はジェネリック使えばいいじゃんみたいな話もあるとは思うけどそのへんてどうなんだろう。ただ、医療費が保険の範囲でまかなえないような状況になってくれば、それに合わせて制度は変わって行くような気が最近はしててその辺の見方は少し変わってるし、そういうあたりをどう変えるかみたいなところに興味もあったり。こんなの見つけた。

 

healthpolicyhealthecon.com

 

全然興味がなかった研究に興味を持つようになったのは、4年生の時。色々な講義を受けるうちに、治せない病気って思ったより多いというか、完全には治せない病気ばっかりだなって思った。臨床をメインに仕事をするなら、現在解明されていることを使って、今治ることがわかってる病気を治すことが仕事の中心になる。だから、今治らない病気は治せないんだなっていう限界のようなものをずっと感じて仕事をすることになるとどこかで聞いたし、実際臨床医の忙しさを見ているとそうだと思う。研究がしたいと思っても、なかなか日々の臨床業務に忙殺されてできないと思う。やれても統計解析的な話になっちゃうと思う。

研究に関われて、もし何かしらの病気の治療法の開発に少しでも関われるようなことができるならそれはとても面白いしやりがいがあると思って、それで研究に興味を持った。ただ、純粋な研究者にはならないんじゃないかなっていう気が今でもする。

 

研究やってみたら面白いところもあったし、そういう意味ではやって良かった。手技は難しすぎたけど、時間がもっとあればはまっていたような気がする。よく考えれば手技は手段であって目的ではないけど、難しい手技は習得する過程自体が結構面白いし、できるようになったやつはやってて楽しい。だから、新しい治療が開発できないかもしれないけど、臨床もやってて楽しいんだろうと思う。

 

あと、医局に残るなら7年目くらいで博士課程に行かないといけないはずで、その時のテーマ選びをする上ではかなり参考になったと思う。博士課程の後は臨床に戻ることになるけど、どうせやるなら面白いテーマで博士課程をやる方がいいに決まってる。

あと、研究がどんなもんか雰囲気をつかむっていうもともとの目的は、前の研究室で達成できたと思う。研究やったことがなかったら、過剰な憧れのようなものを抱くことになっていた気がする。知らずに突然飛び込んで、こんなはずじゃってなって戻ってくる人が結構いるらしいし、そういう感じになるのは防げたと思う。

 

いまいるところにきて思ったのは、冒頭にも書いたけど、研究と一口に言ってもどこでなにをやるかによって全然違うってこと。確かに自閉症には興味があるけど、もっと手技が簡単で進めやすくて、なおかつ発展性もある分野もあるってわかった。あんまり流行に流されるのはよくないけど、現実的にできるかどうか、価値のある何かが言えるかどうかっていうことの方が、特定のテーマにこだわることより大事な気がする。研究を仮にするなら、その最終的な目的は疾患の治療につながる何かしらの成果を残すことだから、テーマとか手技が複雑すぎてできないなら、テーマを変えるのがいいような気がする。

 

つまり、現時点で開発されてる技術の水準から考えて、ニューロサイエンスよりも研究が進みやすい分野はたくさんあると思うし、研究やるにしてもそっちをやる方がいいのかなっていう気もした。時間はたくさんあるようでいて数十年しかないし。自閉症以外にも、たくさんの人が困ってるし面白そうな病気は他にもある。やろうとしてるテーマが、今の技術の水準でしっかりできるのか、進めやすいのかはよく考えないといけないと思う。PCRが開発される前に遺伝子の研究をやろうとしているような状態になっていないか、みたいな。

 

ま、その方がいいのかは結局わからないなぁ。初期研修が終わるまでの残り約3年で色々な情報をあつめて、僕と、周りにいる大事な人たちにとって何が一番いいのか、臨床、研究以外も含めて考えていこっと!

仕事力について

仕事力について

内田樹先生のページのコピペです。備忘録的な。

http://blog.tatsuru.com/2012/05/02_0959.php

 

4月に一ヶ月間、毎週一度朝日新聞の求人欄の上のコラムに「仕事力」というエッセイを連載しました。いつもの話ですけれど、就活する学生たちに対して言いたいことをわりとコンパクトにまとめてあるので、そういう立場にいる方はぜひご一読ください。


自分の適性に合った仕事に就くべきだと当たり前のように言われていますが、「適職」などというものがほんとうにあるのでしょうか。
僕は懐疑的です。
「キャリア教育」の名のもとに、大学2年生から就活指導が始まり、その最初に適性検査を受けさせられます。
これがいったい何の役に立つのか、僕にはまったくわかりません。
大学で教えている頃に、ゼミの学生が適性検査の結果が出たのだが、と困惑してやってきたことがありました。
「あなたの適職は1位キャビンアテンダント、2位犬のトリマーと出たんですけど、私は一体何になればいいのでしょう?」
就職情報産業は学生たちを、自分には「これしかない」という唯一無二の適職があるのだが、情報が足りないせいで、それに出会えずにいるという不安のうちに置きます。それに乗じられる学生たちが僕は気の毒でなりません。
仕事というのは自分で選ぶものではなく、仕事の方から呼ばれるものだと僕は考えています。
「天職」のことを英語では「コーリング(calling)」とか「ヴォケーション(vocation)」と言いますが、どちらも原義は「呼ばれること」です。
僕たちは、自分にどんな適性や潜在能力があるかを知らない。でも、「この仕事をやってください」と頼まれることがある。あなたが頼まれた仕事があなたを呼んでいる仕事なのだ、そういうふうに考えるように学生には教えてきました。
仕事の能力については自己評価よりも外部評価の方がだいたい正確です。頼まれたということは外部から「できる」と判断されたということであり、その判断の方が自己評価よりも当てになる。
「キャリアのドアにはドアノブがついていない」というのが僕の持論です。
キャリアのドアは自分で開けるものではありません。向こうから開くのを待つものです。そして、ドアが開いたら、ためらわずそこの踏み込む。

労働市場における「適職」という語の意味は、意地悪く言えば、「自分が持っている能力や素質に対していちばん高い値段をつけてくれる職業」のことです。とりあえず今はそういう意味で使われている。最も少ない努力で、最も高い報酬を得られる職種を求めるのは、消費者にとっては自明のことです。いちばん安い代価でいちばん質のよい商品を手に入れるのが賢い消費者ですから。その消費者マインドが求職活動にも侵入している。
でも、「費用対効果のよい仕事がいちばんいい仕事だ」というロジックを推し進めれば、ディスプレイの前でキーボードを叩くだけで何億円も稼ぐような仕事がいちばん「賢い」仕事だということになります。
「仕事をする」というのは「手持ちの貨幣で商品を買う」ことではありません。それはむしろ、自分がいったい何を持っているのかを発見するプロセスなのです。

最も少ない努力と引き替えに、最も高い報酬を提供してくれる職種、それを今の人たちは「適職」と呼びます。そして、就活する若者たちは適職の発見に必死です。
でも、それは消費者マインドがもたらした考え方に他ならないと僕は思います。
「賢い消費者」とは、最少の貨幣で、価値ある商品を手に入れることのできたもののことを言います。「賢い消費者になること」それが今の子どもたちのすべてのふるまいを支配しています。
学校がそうです。
消費者的基準からすれば、最低の学習努力で最高の学歴を手に入れたものがいちばん「賢い学生」だということになります。
だから、ぎりぎり60点を狙ってくる。出席日数の3分の2が必須なら、きっかり3分の1休むようにスケジュールを調整する。60点で合格できる教科で70点をとることは、100円で買える商品に200円払うような無駄なことだと思っている。
ほんとうに学生たちはそう信じているんです。
僕の友人が大学の運動部の監督をしています。彼が用事でグラウンドに出られないときに、部員がこう訊きに来たそうです。
「何やっとけばいいんですか?」
彼はその問いにつよい違和感を覚えました。
当然だと思います。これは「何をすべきか」を訊ねる価値中立的な問いではないからです。そのように装っていますが、実際に訊いているのは、「それだけしておけばよい最低ライン」なのです。「あなたから文句を言われないミニマムを開示してください」学生たちはそう言っているのです。
これも友人の医学部の先生から聴いた話です。授業の後に廊下を追って質問に来る学生がいました。教科の内容について訊かれるのかと思って振り返ったら、「これ国試に出ますか?」と訊かれた。
この二つは同じ質問です。
学生たちは当然の質問をしているつもりですが、彼らが訊いているのは「ミニマム」なのです。その商品を手に入れるための最低金額の開示を求めている。
だから、「大学では何も勉強しませんでした」と誇らしげに語る若者が出現してくるのです。
彼らは最低の学習努力で、労働市場で高値のつく学位記を手に入れたおのれの「力業」に対する人々の賞賛を期待して、そう言っているのです。
ですから、就職についても、彼らは同じ原則を適用します。
「特技や適性を生かした職業に就きたい」というのは、言い換えれば、「最小限の努力で最高の評価を受けるような仕事をしたい」ということです。すでに自分が持っている能力や知識を高い交換比率で換金したい、と。
そういう人は、自分が労働を通じて変化し成熟するということを考えていません。
でも、「その仕事を通じて成長して、別人になる」ことを求めない人のためのキャリアパスは存在しません。

歯科医によると、世の中には「入れ歯が合う人」と「合わない人」がいるそうです。
合う人は作ってもらった入れ歯が一発で合う。合わない人はいくら作り直しても合わない。別に口蓋の形状に違いがあるわけではありません。自分の本来の歯があった時の感覚が「自然」で、それと違う状態は全部「不自然」だから嫌だという人は、何度やっても合わない。それに対して「歯がなくなった」という現実を涼しく受け入れた人は「入れ歯」という新しい状況にも自然に適応できる。多少の違和感は許容範囲。あとは自分で工夫して合わせればいい。
この話を僕は合気道の師匠である多田宏先生から伺いました。「合気道家は入れ歯が合うようじゃなくちゃいかん」と言って先生は笑っておられました。
武道というのは与えられた環境でベストパフォーマンスを達成するための心身の工夫のことです。戦場に投じられた時に、「こんな戦力じゃ戦えない。やり直せ」と要求することはできません。手持ちの資源をやり繰りして、何とかするしかない。
結婚も就職も、ある意味では「入れ歯」と同じです。
自分自身は少しも変わらず自分のままでいて、それにぴったり合う「理想の配偶者」や「理想の職業」との出会いを待ち望んでいる人は、たぶん永遠に「ぴったりくるもの」に出会うことができないでしょう。
「どんな相手と結婚しても、そこそこ幸福になれる人」は「理想の配偶者以外は受け付けられない人」より市民的成熟度が高いと僕は思います。
親族というのが「それが絶えたら共同体が立ち行かないもの」である以上、 「大人」とはそういうものでなければ困る。
仕事だってそうです。
「どんな職業についても、そこそこ能力を発揮できて、そこそこ楽しそうな人」こそが成熟した働き手であり、キャリア教育はその育成をこそ目指すべきだと僕は思っています。
自分にどんな能力があるかなんて、実際に仕事をしてみなくちゃわからない。分かった時にはもうけっこうその道の専門家になっていて、今さら「別の仕事に就いていたら、ずっと能力が発揮できたのに…」というような仮定の話はする気もなくなっている、というものではないでしょうか。
予備校生の頃、僕は法学部を出て、検察官か警察官になることを予定していました。でも、なぜか仏文学者になってしまった。法律家になっていたら成功しただろうかと今でも時々考えます。でも、何だかずいぶん残忍で非情な司法官になって、人びとを苦しませていたような気もして、「ならなかった方が世間のためだった」と自分に言い聞かせています。
仏文学者になることも、 武道家になることも、二十歳の時は全く予想もしていませんでした。でも、もののはずみで、それが職業になりました。なった以上、そこでベストを尽くす。そんなふうにして人間は「天職」を自作してゆくものではないかと思います。

卒業して、社会人になったら、学ぶことは終わってしまうわけではありません。学びはエンドレスです。
でも、学び続けられる人は決して多くありません。
先日、あるトークセッションでアナーキズムのことを話題にしたことがありました。
終わった後にたまたまフロアにいた卯城竜太君(美術家集団Chim↑Pomの)が僕のところにやってきました。
彼が僕に向けたのは、「アナーキズムの社会では貨幣はどうなるんですか?」「起業するときは、どういうふうにするんですか?」という面食らうような質問でした。
彼は僕や中沢新一さんがしていたアナーキズムの話を聞いて、「あ、それいい」と思って、もし日本がアナーキズム的な社会になったら、自分はどんな仕事のしかたをすればいいのか僕に訊ねてきたのです。
彼のその想像力の自由さと、「学ぶ」姿勢のストレートさに、僕はちょっと感動してしまいました。
そして、たしかにこういう人が自分の専門分野で抜きんでた仕事をなしとげ、国際的な存在になるのだろうなと思いました。
「学ぶ姿勢」のある人は何よりも素直です。つまらない先入観を持たない。「アナーキズム的社会なんてありえないよ」という生半可なリアリズムで好奇心を閉ざさない。素直な人に訊かれると、こちらもつい真剣になる。知っている限りのことを、知らないことまでも、教えてあげたい気分になる。そういうものです
つねづね申し上げていることですが、学ぶ力には三つの条件があります。
第一は自分自身に対する不全感。自分が非力で、無知で、まだまだ多くのものが欠けている。だから、この欠如を埋めなくてはならないという飢餓感を持つこと。
第二は、その欠如を埋めてくれる「メンター(先達)」を探し当てられる能力。メンターは身近な人でもいいし、外国人でも、故人でも、本や映画の中の人でもいい。生涯にわたる師でなく、ただある場所から別の場所に案内してくれるだけの「渡し守」のような人でもいい。自分を一歩先に連れて行ってくれる人はすべてたいせつなメンターです。
第三が、オープンマインド。人をして「教える気にさせる」力です。素直さと言ってもいいし、もっと平たく「愛嬌」と言ってもいい。
この三つの条件をまとめると、「学びたいことがあります。教えて下さい。お願いします」という文になります。
これが「学びのマジックワード」です。
これをさらっと口に出せる人はどこまでも成長することができる。この言葉を惜しむ人は学ぶことができません。学ぶ力には年齢にも社会的地位にも関係がありません。
これから仕事に就くみなさんのご健闘を祈ります。
がんばってください。

【お金より大切なもの】 アップル創業者 スティーブ・ジョブズ氏

【お金より大切なもの】

アップル創業者

スティーブ・ジョブズ氏の最後の言葉

これは最後まで読んでほしい。

『私は、ビジネスの世界で、成功の頂点に君臨した。

他の人の目には、私の人生は、成功の典型的な縮図に見えるだろう。しかし、いま思えば仕事をのぞくと、喜びが少ない人生だった。

人生の終わりには、お金と富など、私が積み上げてきた人生の単なる事実でしかない。病気でベッドに寝ていると、人生が走馬灯のように思い出される。

私がずっとプライドを持っていたこと、認証(認められること)や富は、迫る死を目の前にして色あせていき、何も意味をなさなくなっている。

この暗闇の中で、生命維持装置のグリーンのライトが点滅するのを見つめ、機械的な音が耳に聞こえてくる。

神の息を感じる。死がだんだんと近づいている。。。。

今やっと理解したことがある。

人生において十分にやっていけるだけの富を積み上げた後は、
富とは関係のない他のことを追い求めた方が良い。

もっと大切な何か他のこと。それは、人間関係や、芸術や、または若い頃からの夢かもしれない。終わりを知らない富の追求は、人を歪ませてしまう。私のようにね。

神は、誰もの心の中に、富みによってもたらされた幻想ではなく、愛を感じさせるための「感覚」というものを与えてくださった。私が勝ち得た富は、私が死ぬ時に一緒に持っていけるものではない。

私があの世に持っていける物は、愛情にあふれた(ポジティブな)思い出だけだ。これこそが本当の豊かさであり、あなたとずっと
一緒にいてくれるもの、あなたに力をあたえてくれるもの、あなたの道を照らしてくれるものだ。

愛とは、何千マイルも超えて旅をする。人生には限界はない。行きたいところに行きなさい。望むところまで高峰を登りなさい。

全てはあなたの心の中にある、全てはあなたの手の中にあるのだから世の中で、一番犠牲を払うことになる。

「ベッド」は、何か知っているかい?シックベッド(病床)だよ。

あなたのために、ドライバーを誰か雇うこともできる。お金を作ってもらうことも出来る。だけれど、

あなたの代わりに病気になってくれる人は見つけることは出来ない。

物質的な物はなくなっても、また見つけられる。しかし、一つだけ、なくなってしまったら、再度見つけられない物がある。

人生だよ。命だよ。手術室に入る時、その病人は、まだ読み終えてない本が1冊あったことに気付くんだ。


「健康な生活を送る本」


あなたの人生がどのようなステージにあったとしても、誰もが、いつか、人生の幕を閉じる日がやってくる。

あなたの家族のために愛情を大切にしてください。

あなたのパートーナーのために

あなたの友人のために。

そして自分を丁寧に扱ってあげてください。

他の人を大切にしてください。』

スティーブ・ジョブス
1955年2月24日 - 2011年10月5日